奈良時代中期、西暦710年に僧行基によって建立され当寺は法相宗であった。
当時この地方は秦氏一族の支配によって統治されており周辺には古墳も残り、瓦・土器・窯場跡等が出土している。
平安時代慈覚大師円仁によって天台宗に改宗された。室町時代には鈴鹿山麓に連なる百済寺、金剛輪寺、西明寺、敏満寺と湖東五山としてその隆盛を誇り、これらの寺院とともに全国からの修行僧と信者により栄えてきたが、西暦1503年応仁の乱、又安土桃山時代の信長の焼き打ちにより二度の戦火にあい全山が消失した。当時の本尊聖観世音菩薩は戦火をのがれ奉隠したが現在は他の仏像、宝物ともそれぞれ、他の寺社に安置されている。現在の本堂は、寛文12年(1672)焼け残った御堂の一部を使用しこの地に移築し、本尊に十一面観世音菩薩を祀り豊国郷の寺院として再建された。この戦火により大覚寺の資料等すべて焼失し、言い伝えによることしか分からない。
このように再建された本堂は昭和61年近傍縁者、信徒等により大修復され現在に至る。