こみねじんじゃ
群馬県藤岡市本動堂
本動堂の縁起 仁治元年(1240)夏四月、武蔵国の住人、津戸三郎為守がたまたま木曽路を通り関東へ向かっていました。木曽の郷戸の駅に泊まりその夜不思議な夢を見ました。手につぼみのハスを持ち、身には陣..
本動堂の縁起 仁治元年(1240)夏四月、武蔵国の住人、津戸三郎為守がたまたま木曽路を通り関東へ向かっていました。木曽の郷戸の駅に泊まりその夜不思議な夢を見ました。手につぼみのハスを持ち、身には陣羽織をまとい、足にはかぶとをはいた、姿のかわった聖者が、為守に向かって、「おまえ、あすになったならば、われを東路に連れて参れ。縁のある地に行けば、必ず重くなるであろう」と申されました。 目が覚めてから、不思議に思って、近くのきこりに夢の話をしたところ、きこりは、「和語坂の観音様は巴御膳の守本尊でございまして、夢に現われたとおりでございます。」と答えました。 為守は、霊夢のとおりであるので、さっそく尊像を背負い東国に向かって下りました。どこが縁ある土地であろうかと鎌倉街道に下り、上野国緑埜郡鮭塚(社家塚)の原まで来たところ、尊像は大きな岩のように重くなりました。 そこで、鮭塚に寺を建て尊像を安置しました。これが本動堂(もとゆるぎどう)の始まりです。為守はずっと以前建久六年(1195)三月二十二日に法然上人の法弟となって、尊願法師といっていました。 この聖観音は霊験があらたかで、例話は非常に多く、ある年、春から秋になるまで日照りが続いて、田畑はほとんど枯れ野のようになってしまいました。近郷の農夫たちは、いたたまれなくなって、お堂をとり巻いて皆一心に「雨を降らしめたまえ」と尊像に祈りました。 真心はついに仏に通じ、ぐらぐらとお堂は揺れ、その音は鏑矢(かぶらや)を射るようであり、まさに「甘露の法雨」です。このために飢えにも、渇きにも苦しむことはなくなりました。 このことがあってから、当時の人々は、「動堂本尊」と呼び、この土地を動堂村(ゆるぎどうむら)というようになったといいます。 それから数代を経過して、紫衣を賜った高僧幡隋上人が通行され、観音の霊験や尊願法師の旧跡をしのび、何日間もありがたいお経の講話をされ、近郷近在の男も女も喜んで拝聴しました。草木もなびくと、たとえられますでしょうか。このころ、藤岡の城主は芦田修理太夫幸正で、上人に深く帰依していました。天正十九年(1591)に当初あった場所から南方に2.5㎞離れた、藤岡に寺地や黄金を寄付して、尊像もお堂もすっかり移しました。これが現在(古桜町)の藤岡山尊願院一行寺です。そして寺の東西の通りを動堂通りと称し、初めに尊像を安置した動堂村に「もと」をつけて、本動堂(もとゆるぎどう)と呼ぶようになりました。 (ブログ「南八幡の案内人」より)
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