りゅうごんじ
山形県酒田市中央東町4-50
昔、法泉院と称して御室仁和寺の末寺で酒田は最上川の南、飯盛山の西に所在したものであって、当山中興の祖、宥遍上人は文明年間(約五百年前)の人である。 慶長六年(1601年)現在地に移転、しかし宝..
昔、法泉院と称して御室仁和寺の末寺で酒田は最上川の南、飯盛山の西に所在したものであって、当山中興の祖、宥遍上人は文明年間(約五百年前)の人である。 慶長六年(1601年)現在地に移転、しかし宝暦元年三月(1751年)焼失。その後本間光丘氏大施主として造立したが寛政十年(1798年)再び焼失。このとき藩主酒井家より米五十俵、桧材百本の寄進があったのは亀ヶ崎城主志村伊豆守の祈願所であった為である。また当時の龍厳寺住職は酒田寺院の筆頭として、年始登城のときには二の丸門まで乗り物をとおされ、黒書院において杯頂戴・御返杯の格式を持っていた。 境内に板碑があるが摩滅甚しく碑文を解読し得ない。しかし、この種の板碑の型は南北朝時代に流行したようである。天和三年(1683年)巡検使調書によれば、庄内三郡を通じての談義所は此の処一ヶ所であり、「真言宗酒田山談義所」と称して学問の中心地であった。
酒田山
真言宗
智山派
大日如来
庄内十三仏霊場三番札所