ひびやいなりじんじゃ
東京都中央区八丁堀3-28-15
日比谷は、元々江戸海岸の入江であって、ヒビを立てて海苔を採っていたので「ヒビ谷」と称しました。長禄元年に、太田道灌が江戸城を築いた時、天地の恵みに感謝して、生命の根である稲霊神を祭るため、城外日比..
日比谷は、元々江戸海岸の入江であって、ヒビを立てて海苔を採っていたので「ヒビ谷」と称しました。長禄元年に、太田道灌が江戸城を築いた時、天地の恵みに感謝して、生命の根である稲霊神を祭るため、城外日比谷の海岸(現在の日比谷公園の土地)に、御社殿を立てたのが、此の日比谷稲荷神社の始まりであります。 天正十八年より慶長七年に至る十三年間は、徳川家康が、江戸城の主として、関東大守でありましたが、慶長八年二月十二日、天皇より征夷大将軍に任ぜられると、江戸城は、一躍天下の主城としての大拡張工事を始めることになりました。 慶長十一年に、日比谷稲荷神社の所に、江戸城日比谷御門が建設されることになった為に、代替地を芝口に賜わって移転したのが、現在の新橋四丁目十三番地の日比谷稲荷神社であります。 然し、どうしても海岸に祀らないと困る崇敬者の人々は、日比谷稲荷大神を戴いて、八丁堀先の干潟に埋築し、そこに御社殿を造営して、御神霊を御遷座申上げたのが、当神社、日比谷稲荷神社であります。 日比谷稲荷神社は、此の新しい土地の地主神として、丁寧に祭祀されていたので、此の一角は、永い間に亘って、日比谷町と公称されていました。 東京都公文書館所蔵の、「明治十二年神社明細帳」には、 無各社日比谷稲荷神社は、明治六年一月七日の日付で、所在地は、武蔵国豊島郡京橋区日比谷町一番地河岸地境内二十五坪三合除地 となっています。 大正十二年九月一日の大震災後の区劃整理で、日比谷町は、隣接の幸町、長沢町等と合併の上、八丁堀三丁目と呼ばれました。また、大東亜戦争終戦後は、住居表示改正で、西八丁堀三丁目と合併した。今日の八丁堀三丁目の一部となりました。然し、旧日比谷町に当る一区劃の地主の神は、変わることなく、今も昔も、此の日比谷稲荷神社であります。 住古、日比谷の海岸に在った頃、旅人御守護の霊験が篤かったので、江戸へ来た人々が、多く当日比谷稲荷神社に泊って、お詣りしたので、これを「旅泊稲荷」とも唱え、「さばいなり」と呼んでいました。 後に、虫歯に苦しむ人は、鯖絶ちをして、日比谷稲荷神社に祈って、よく助かったというので、鯖を供えてお礼詣りする人が頗る多くなりました。そこで、此の意味からも「さばいなり」と通称され、鯖の絵馬、扁額が社殿に多く掲げられるようになりました。 然し、最初の御鎮座の時の精神が、天の光、地の恵みに対する感謝の誠心をあらわすことにありましたように、今でも、此の旧日比谷町に住み且つ事業を営む人達が、御守護を受けている地主神としての日比谷稲荷神社を拝んで、天地の御恵みに感謝し、家庭では、各自の親先祖を大切にて、暴飲暴食を戒めてゆけば、必ず必ず、天地の御守護に感謝する。開運の人となることが出来るのであります。
豊受大神
JR京葉線・東京メトロ日比谷線 八丁堀駅から徒歩2分
常時(参拝自由)
無料
10分未満(3分程度)
有り(但し、一般参拝者の駐車が可能かどうかは不明)
無し