おおみやじんじゃ(たわらてんのうしゃ)
京都府綴喜郡宇治田原町荒木天皇38
「田原祭(三社祭)」の三社を構成する荒木・郷之口両地区の氏神で、光仁天皇の宝亀元年6月の勅命によって、雙栗天神社よりこの地へと遷宮されたと伝えられています。現在の祭神は、天照大神、大己貴尊、瓊瓊杵尊..
「田原祭(三社祭)」の三社を構成する荒木・郷之口両地区の氏神で、光仁天皇の宝亀元年6月の勅命によって、雙栗天神社よりこの地へと遷宮されたと伝えられています。現在の祭神は、天照大神、大己貴尊、瓊瓊杵尊の三神です。 また合祀社として、田原天皇社(施基親王)、八幡社(応仁天皇)があり、末社としては諸戸神社(紀諸人)、御霊神社(崇道天皇=早良親王)がまつられ、これらの祭神は、荒木地区の産土神として、はじめは大宮の社と称され、いつしか大宮大明神社と呼ばれるようになりました。 創建後、社殿は、平治の乱と南北朝時代の二度にわたって焼失しましたが、その度に再建遷宮されました。現在の建築は、江戸時代初期から中期のものと考えられ、三間社流れ造りです。 宇治田原には天智天皇の第七子として生まれた「施基(しき)皇子(田原天皇)」が屋敷を構えたという伝承があり、「天皇」という地名もそこからきています。近くの「天皇谷」背後の山上に御陵が作られたことから、皇子をまつる社は最初山上に作られていたといいます。 神社の下、現在の中央公民館付近には7世紀後半に創建されたという「山瀧寺(さんりゅうじ)」が存在していたことから、谷底から引き上げられたという鎌倉時代の宝筐印塔や文殊菩薩の梵字が刻まれた自然石など、むかしの神仏習合を伺わせる遺物が境内に遺されています。また、現在の手洗鉢は山瀧寺の塔心礎であったといわれています。
志貴(施貴)皇子が政治から離れる為に居住した地にある神社。 皇子は父に天智天皇、子に光仁天皇を持ち、 後に追尊され「春日宮天皇」となる(歴代天皇には数えない)。 別名の田原天皇とはここの地名より付けられたが、以前あった「田原天皇...
天照大神 春日宮(田原)天皇 他
三間社流れ造り
町指定文化財:宝筐印塔
無料
なし