本岡寺は、永仁6年(1298年)に、日蓮大聖人の直弟子「美濃阿闍梨天目日盛聖人」(みのあじゃり てんもく にちじょうしょうにん)の
開山と伝えられております。
日蓮大聖人の池上での御入滅の16年後、今年(令和2年)で開山722年となります。
当初は、現在地より南に1㎞ほどの大内台(おうちのだい)と言う山の中に、法華堂(ほっけどう)が建立され、本光院(ほんこういん)と名乗ったのが始まりと言われています。
本岡寺が転機を迎えたのが江戸時代初めになります。
茂木の地を治めていた、宇都宮一族の「茂木氏」やその後の佐竹家臣「須田美濃守」が、佐竹家と共に秋田へ移り、その後を「細川幽斎公」の次男、熊本藩の初代「細川忠興公」の弟「細川興元(おきもと)公」が、茂木藩を建てた頃です。
茂木城下から見て、現在地は、宇都宮や益子方面の入り口に当り、番所が置かれていたと推測されます。
その為、この本岡寺周辺は、古い言い方では「門側」(もんぱた)呼ばれており、西側の地区(宇都宮寄り)を「番の前」と言う旧地名も残っております。
その様な場所ですので、いざ戦となった時は寺を使うことを考え、現在地に移る様に興元公より命じられ、土地の寄進を受け、二代「興昌(おきまさ)公」の時代、本岡寺第12世「日円(にちえん)聖人」の手で現在地に移転いたしました。
また、この移転には、当時本岡寺に帰依されていた、二代興昌公の奥方「淨珠院(じょうじゅいん)さま」の力添えが大きかったとおもわれます。
淨珠院様は、伊予大須藩初代「加藤貞泰(かとうさだやす)公」の娘で、本岡寺の大信者でした。
娘の「鶴姫」や孫で「熊本新田藩(くまもとしんでんはん)」の初代「細川利重(とししげ)公」の奥方になった「亀姫」と共に、本岡寺を盛り上げてくださいました。
その関係で、本岡寺の紋は、細川九曜紋を使っております。
本堂裏に淨珠院さまの墓所が作られ埋葬されました。
また、鶴姫・亀姫の供養塔も、寄り添う様に建てられております。
現在、「淨珠院さま」の墓所は、茂木町の町指定文化財に登録されています。
この時代以降、本岡寺は、細川家臣団を中心に信仰を集め、興元公寄進の馬頭観音像や三代興隆(おきたか)公重臣が寄進した涅槃図の掛け軸が、今も伝わっております。
また、当時の重臣の子孫と伝わる家柄も残っております。
その中に、岡家という家はあり、それまで本光院という名でしたが、その岡の字を使って、宝永の頃に今の本岡寺という名前に替わったと伝わっています。
その後は、残念ながら、住職不在の時期もあり、荒廃した時代もありましたが、歴代住職の尽力で復興する事ができ、戦前の三派合同までは顕本法華宗に所属していましたが、三派解消後は日蓮宗に残り、現在まで続いております