なつぎじんじゃ
兵庫県西宮市名次町13
古来より衣食住に殊の外他関係深い水分神を奉祭する特に雨乞いに霊験あらたかなる社であります。御創立の年代はつまびらかではありませんが、第56代清和天皇貞観元年正月正5位下の神階を授けられ、同年9月8日..
古来より衣食住に殊の外他関係深い水分神を奉祭する特に雨乞いに霊験あらたかなる社であります。御創立の年代はつまびらかではありませんが、第56代清和天皇貞観元年正月正5位下の神階を授けられ、同年9月8日風雨御祈りのため、勅使を参向せられ、幣帛を奉られています。 第60代醍醐天皇の延喜の制大社に列せられ、月次、新嘗及び祈雨の幣帛を奉られています。旧本殿は石造りで中御門天皇正徳5年正月再建、又石鳥居は元禄5年の建立であります。 名次山はわが国最古の歌集万葉集巻3に「吾妹子に猪名野は見せつ名次山角の松原いつか示さむ」高市連黒人によって詠まれ、すでに1200年の昔より、名勝地として名高く現名次町は古昔の名次山であり明治末期まで当神社の境内地でありました。かつて当神社は名次山中央の景勝地に鎮座されていましたが、明治41年5月その北端(南郷山)の現位置に移転されました。~社頭掲示板より~ この越水丘陵、南郷山一帯は、弥生式時代から発達したところで、周辺に弥生式の顯著な遺跡が多いため、早くからこの地で神祭りが行われていたものと考えられる。 一説に「もともと名次神社は浜近くの越水丘陵の南端に祀られていましたが、夙川の流れが運ぶ土砂の堆積によって南下した海岸線にあわせて漁民たちが移り住んでいったために次第に衰退し、摂津国守護・細川高国公に仕えていた豪族・瓦林正頼公が1516(永正13)年に越水城を築城した際に名次山の中腹へと遷され、さらに明治時代に入って現在への場所へと遷座されました。」とある。
名次大神
廣田神社の境外摂社
阪急甲陽線 苦楽園口駅から徒歩約9分