ぜんこうじ
群馬県前橋市鶴光路町26-1
歴史・沿革 当山の開基については、記録によると『上野国郡村誌(群馬郡村誌)』に平安時代初期の大同二年(807年)丁亥傳教大師開基創建と云われ、また『下川淵村誌』には「その昔、聖徳太子が広く仏法興隆..
歴史・沿革 当山の開基については、記録によると『上野国郡村誌(群馬郡村誌)』に平安時代初期の大同二年(807年)丁亥傳教大師開基創建と云われ、また『下川淵村誌』には「その昔、聖徳太子が広く仏法興隆に努められ四十六願の本誓を立て、四十六所如来の道場を建てられた。本寺はその一つ」で、「こうした霊場の故を以て鎌倉将軍源頼朝が深く帰依して、その母常盤の菩提の為に、朱印三十三石を寄進した。爾来星霜幾百、堂塔伽藍の旧態なく、また火災にあったので旧記悉く滅び、ただ口碑として、以上のように伝えられた。」とある。明治期に編纂された『寺院明細帳』にも同様の記述があり、『下川淵村誌』の記述はこれを敷衍したものと思われる。村誌本文中の数字「四十六」は『寺院本末帳』にある「四十八」の誤りであろう。 当山歴代住職の過去帳には中興開祖再建を成した覚祐和尚を第一世と記しているが、惜しむらくは在年の記述が無いが類推すると応永年間(1394-1427)の室町幕府初期足利義満のころと思われ、それより前の堂宇は火災に遭い灰燼に帰したのであろう。創建より中興に至るまでの記録は伝わらないが、伝承により聖徳太子や傳教大師にその開基が仮託される如き古くからこの地に布教伝道の礎を築いていたとも考えられる。境内に残る五輪塔は十四世紀前半の様式を示す。 江戸幕府の時代になり、寺請制度と寺院の末寺制度導入により地方に至るまで幕府の寺院管理が進められた。幕府の政策に関わった天台宗の慈眼大師天海和尚は東叡山寛永寺を開山し、上州世良田長楽寺の住職となり、一帯の寺院は長楽寺の末寺となった。当寺も長楽寺の末寺となり、三代将軍家光より十四代将軍に至るまで朱印三十三石が与えられていた事を示す朱印状が残る。 江戸時代中期において二十二世世智貫和尚が傑出し、元文四年(1739年)に宝篋印塔を建立した。その後榛名山の光明寺に移った後も当山へ観経曼荼羅の寄進を行っている。次の貫亮和尚によって鐘楼の建立がなされたが、この鐘は太平洋戦争の鉄類の供出によって失われた。 その後昭和58年(1979年)に鐘楼が完成し、平成8年(1996年)には本堂の改修がなされた。 なお、信州の善光寺との関係についてはその由縁を示す文献は伝わらないが、古くから信州善光寺への参拝道が在ったと言われ、当山に伝わる厨子に納められた一光三尊の仏像は信州善光寺に奉られているものと同じ様式のものであり、その因縁をうかがい知ることが出来る。
雲上山
佛乗院
天台宗
807年 (大同二年)
阿弥陀如来
伝教大師最澄
上州善光寺
北関東自動車道 前橋南IC 約5分
無料
有り