ぎおんやさかじんじゃ
宮城県大崎市古川中島町10−45
本神社の起源については「桓武天皇ノ御宇東夷跋扈王化ニ帰セズ征夷大將軍坂上田村麻呂勅ヲ奉シ征討スルニ当リ素戔雄神ニ平定ヲ祈願セラレシニ戦捷其功ヲ得ラレシニヨリ深ク神徳ノ顕著ナルニ感ジ其凱旋ノ途ニ於テ國..
本神社の起源については「桓武天皇ノ御宇東夷跋扈王化ニ帰セズ征夷大將軍坂上田村麻呂勅ヲ奉シ征討スルニ当リ素戔雄神ニ平定ヲ祈願セラレシニ戦捷其功ヲ得ラレシニヨリ深ク神徳ノ顕著ナルニ感ジ其凱旋ノ途ニ於テ國家安泰ヲ祈ラントシ該神霊ヲ勧請シ社殿ヲ建立シ崇敬ヲ盡サレタシハ実ニ延暦二十三年六月ナリキ云々」(安永風土記書出)とあり、当地の地名稲葉は京都本社が鎮座する地名から準称したとされる。しかしながら、其の後戦乱屡々起こり社殿悉く兵燹により久しく荒廃したと云うが、朱雀天皇の御宇下野國押領使藤原秀郷公は神人行者三神安秀に命じ武運を祈らせたところ「其神徳ニ感ジ天慶三年六月十四日安秀ヲシテ社殿ヲ建築シ再興セシメ併セテ櫛稲田姫命、大歳神、御歳神、若歳神ヲ合祀勧請セラレ祇園社志太郡總鎮守ト尊称シ三神安秀ヲ当社別当トナサシメ篤ク崇敬」したと云う。古くは「祇園社」或いは「祇園牛頭天王社」と称し大崎地方の総鎮守、日本三祇園之一社として地方民の崇敬をあつめ「祇園さま」と称され親しまれ、殊に県内全域に頒布する正月の御神像(お正月様)は戦前迄は本神社より発行していたが、戦後版元は神社庁に移されて今日に至っている。天文五年六月二十一日古川城(城主古川刑部持慧)没落の際、兵燹のため「結構荘厳ノ社殿什物記録等悉ク煙滅」したが、慶長年間仙台藩祖伊達政宗公偶々中奥御出駕の折、「聞キテ之ヲ憂ヒ假社殿ヲ建立シ幣物ヲ献ジ」、慶長五年横坊法印了尊を福島県信夫郡土舟より迎え入れ別当として奉仕せしめた。この時の迎えの行列は現在「先陣・後陳大名行列」として古川市や大崎地方の慶事の際に催行されている。また、例祭当日には軽卒十人を御神事番として遣わし非常の警固に当たらせ、爾後歴世の藩主供物献納の例を缺くことなく廃藩当時に至る迄其の式礼が行われた。特に十代藩主齋宗公は、御朱印地を寄進し御家紋も賜り、社殿額面、御神輿、祭具等に著るされ、毎年六月十三日より仝月十五日に亘り「厳粛ナル祭典ヲ執行」して崇敬した、と云う。(伊達家封内風土記巻十四)。嘉永二年、境内地社殿、御長床を悉く改築。現拝殿の天井画はこの時に掲げられた。明治三年五月「八坂神社」と改號、仝五年十二月郷社に列せられ仝年大国主神、事代主神、宇迦之御魂神、奥津彦神、奥津姫神を合祀。昭和十五年、皇紀二千六百年を記念して氏子及び崇敬者よりの寄進を得て本殿、拝殿、幣殿、神饌所並びに社務所を改修築し境内地を拡張修理、参道の修理を行う。加えてこの記念として植林も行われた。境内社の十社は元々稲葉の十方位にそれぞれ鎮座してあったものを昭和九年、耕地整理の際に境内へ移築合祀。これは京都本社に傚い祀られた社と云われる。旧社務所は天保十二年の建物で元代官所、志田郡々役所として使用され、又明治天皇が東北御巡行の折り三度お泊まりになられた行在所であったものを昭和三十一年に境内に移築し使用していた
素戔雄神、大年神、稲田姫神、八王子神、大国主神、事代主神、奥津彦神、奥津姫神
旧郷社
804年(延暦23年)
一間社神明造
約10分