ぐぞせんげんじんじゃ
神奈川県大和市下鶴間391
創立年代は不詳であるが、源頼朝が創建したといわれる。文亀神名録に鶴間神社と登載され、相模八十一社の巡拝所の一つとして鶴間郷総鎮守であったと伝えられる。新編相模風土記稿によると貞享元年(一六八四)再..
創立年代は不詳であるが、源頼朝が創建したといわれる。文亀神名録に鶴間神社と登載され、相模八十一社の巡拝所の一つとして鶴間郷総鎮守であったと伝えられる。新編相模風土記稿によると貞享元年(一六八四)再建の棟札が記されてあるが、現存のものは宝永四年(一七〇七)のものである。この棟札に「富士浅間大菩薩」とあるところから、この頃すでに浅間神社と呼ばれていたことがわかる。戦国末期に長谷川角行が現われ富士講を広めたので江戸を中心に浅間信仰が盛んになり、当神社の氏子も富士講を組織して例祭を六月朔日と定め富士の山開の日に行ったらしく、文久二年(一八六二)の村方絵図には浅間神社に向ふ道路に「字富士山道」とあり、亦、宝永四年の富士山大噴火による降灰を集めて富士を型どり塚を築造したものと思われる。 其の後年を経るまゝにしばしば回禄の災があって、社殿等空しく烏有に帰し祭典も絶えがちになりほとんど荒廃するばかりになったが、大正十三年、氏子の崇敬にわかに高まって社殿を改築して御神徳の昂揚をはかった。昭和十九年一月四日付県公報をもって指定村社に昇格され、此の際子之神社、住吉神社を合祀した。 昭和二十八年八月、神道指令に従ひ宗教法人浅間神社として神社庁に登録する。昭和四十八年、国道十六号線大和バイパス新設により境内地を大幅に削られ、諸般の情勢をかんがみ氏子相計って、神社百年の大計を確立のため移転造営を発願する。昭和四十九年九月十五日、建築に着手して五十年九月竣工、同月十四日、つきみ野八丁目十四番地(元下鶴間一四三七)より現在地に御遷宮となる。
木花開耶姫命 大己貴命 表筒男命
村社
不詳(源頼朝が創建したといわれる)
鶴間神社