まむしがいけはちまんぐう
愛知県名古屋市千種区向陽1丁目3番32号
千種区の西部は以前古井村と呼ばれ、水の乏しい台地で、その大部分は山林原野でした。江戸時代初期の慶長十五年(1610)名古屋城が築かれるとともに、その南方に広大な城下町が遣られました。城下町の人口が増..
千種区の西部は以前古井村と呼ばれ、水の乏しい台地で、その大部分は山林原野でした。江戸時代初期の慶長十五年(1610)名古屋城が築かれるとともに、その南方に広大な城下町が遣られました。城下町の人口が増加するとともに、古井村の原野に目をつけて、開墾を始める人たちが出てきました。これらの開墾地は名古屋新田と呼ばれ,北は大曽根、鍋屋上野から、南は瑞穂区の井戸田や大喜の村々にわたって散在していました。 年貢の取り立てなどを通じて、名古屋新田を支配していたのが、兼松源蔵と小塚源兵衛です。そのうち兼松家は代々源蔵を名乗り、名古屋新田の北部の支配を受け持っていました。名古屋新田の耕地は丘陵地のため、そのほとんどが畑でした。兼松家は鉄炮坂池(振甫町)を掘ったり、蝮ヶ池の堤をかさ上げしたりして、二十四ヘクタールほどの水田を開きました。そのため農民も増えてきたので、寛政元年(1789)宗右衛門正受の代に、古井村池ノ内(仲田二丁目)に移り住んで、直接農民を指導支配しました。 さて日本全国に数ある八幡杜の総本社は、九州大分県の宇佐八幡宮です。八幡宮は古来皇室や源氏の崇敬が篤く、後に各地に勧請されました。中でも京都府の石清水八幡宮と、鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮は有名です。 蝮ヶ池八幡宮は、第百九代明正天皇の御代兼松源蔵が石清水八幡宮の分霊を勧請し、当初自邸に近い西八幡社の地に祭ったのがその始まりと伝えられます。後に現在地に社殿を造営し、名古屋新田の人たちの鎮守としました。