桓武天皇の延暦年(782~806年)中、坂上田村麻呂が東征の際、武運長久を祈って薄磯の海浜において潮垢離(しおごり)の神事が行われ、そののち源義朝、足利尊氏、徳川家康等が祭使を派遣して神事を執行された。
応仁の乱(1467年)の頃、神官中山彦次郎(小野氏の祖で一時は中山領主)は、戦争にまきこまれ祭事を廃し、旧記や神領等悉(ことごと)く失ったので、その娘が一時、矢田村へ家を移し、神を勧請して、茲(ここ)に郷民が社を建てた。
ところが、神霊は旧社を慕って毎夜中山の嶺に光を放つので、時の村主植田平六はこの噂をいやがり、社をとりこわしてしまった。彼の子孫は神の怒りにふれて滅亡したと云う。その後、旧知に社を遷したが、天和2(1682)年3月、雷火にあって焼失したので平城主内藤義泰は翌年8月に再建し、山林一町歩を寄進して祭祀に供し、今日に至る。