ほんじせんじゅじ
栃木県真岡市高田1482
嘉禄元年(1225年)、浄土真宗の開祖である親鸞が、関東各地の教化に入って十余年、真岡城主大内国行の懇願により建てられた寺院と伝えられる。また、『親鸞聖人正統伝』によれば親鸞が「般舟石(はんじゅせき..
嘉禄元年(1225年)、浄土真宗の開祖である親鸞が、関東各地の教化に入って十余年、真岡城主大内国行の懇願により建てられた寺院と伝えられる。また、『親鸞聖人正統伝』によれば親鸞が「般舟石(はんじゅせき)」の上で野宿をしていた時に、童子の姿をした明星天子が現れてこの地に寺院を建立するようにいったという。その際、信濃国善光寺の本尊である秘仏を模した善光寺式阿弥陀三尊(一光三尊仏)を善光寺より迎えて本尊とした。その為、親鸞が建立した唯一の寺だとされている。 翌嘉禄2年(1226年)には、後堀河天皇から「専修阿弥陀寺」という勅願寺の綸旨を受け、親鸞の教化活動は遊行から本寺中心に変わり、建立後約7年間この寺で過ごしたとしている。このように、本寺は東国における初期の浄土真宗の教団活動上重要な役割を果たした寺である。真仏を中心とした門徒衆は、関東各地の門徒が作る教団の中で最も有力な教団「高田門徒(現・真宗高田派)」を形成し、京都へ帰った親鸞からしばしば指導の手紙や本人が書き写した書物などが送られている。 専修寺を再び飛躍させたのが、東海・北陸方面に教化を広めた第10世真慧(しんね)であった。真慧は下野国の有力領主であった宇都宮正綱の庇護を受け、その子である宇都宮成綱・塩谷孝綱兄弟も真慧没後の住持不在時にもこれを手厚く保護している。また、この頃に専修寺は延暦寺東塔の末寺となっている。 永正9年(1512年)10月に真慧が亡くなると、真慧の妻の連れ子である応真(富樫政親の子)派と、常盤井宮家出身の養子である真智(後柏原天皇の猶子)派で争いが勃発する。その最中、本寺専修寺は大永6年(1526年)に兵火によって炎上し、荒廃した。その為に真慧が伊勢国に建てた一身田無量寿院が本山とされ、本山専修寺となっていった。 本寺専修寺の伽藍は江戸時代に入って再建され、本尊の一光三尊仏は今もここに安置されている。 本寺専修寺の北東約200mの場所に当寺ゆかりの「般舟石」があり、また、南東およそ2kmの所に、専修寺造営中に親鸞が仮住居としていたと伝えられる「三谷草庵」が復元されている。
高田山
浄土真宗
高田派
本寺
1225年(嘉禄元年)
阿弥陀如来
親鸞聖人
真仏房
親鸞聖人二十四輩2番
国重文:御影堂、如来堂、総門、山門、顕智上人像、真佛上人像 県重文:親鸞聖人像、涅槃像、南無仏太子像
1月1日 修正会 8日 発祥会 3月お彼岸中日 春季彼岸会、永代経 8月1日、2日 高田まち 9月お彼岸中日 秋季彼岸会、永代経 11月15日、16日 報恩講 親鸞聖人御正当 12月31日 除夜の鐘
JR水戸線下館駅よりタクシーで約20分 真岡鐵道久下田駅又は真岡駅よりタクシーで約10分 北関東自動車道「桜川筑西IC」又は「真岡IC」から車で約20分
有り