元亨2年(1322)
新城館主が新城笹岡に「山王宮・八幡宮」を勧請したのが始まりと伝わります。
※古伝承によれば、それ以前に安部宗任が日吉山王と岩清水八幡を勧請して笹岡に修験時日吉山延命寺無量寺院を建立したのが、その前身であるとされる。
応永2年(1395)
安部沙弥安宗により上新城五十丁に遷宮されます。
※14世紀、安東氏(本姓:安部氏)は「山王」を宗教的支援基盤としていたことから、安東氏との深い関係がうかがえる。
天正17年(1589)
安東実季により飯島に遷宮
※同年、桧山の安東実季が土崎湊の安東道季を滅ぼし、同社を守護神として飯島に遷宮する。文禄3年(1594)に実季が上洛する際の起請文の中に当郡鎮守のひとつとして「山王八幡」が記録に残る。
元和元年(1615)
秋田藩初代藩主佐竹義宣により八橋狐森に遷宮。
※佐竹義宣が慶長7年(1602)に土崎湊城に入り、間もなく山王八幡両社へ参拝、修造していることから安東氏の治世を引き継ぎ、佐竹氏が山王八幡社を庇護したことがうかがえる。
佐竹義宣は慶長9年(1604)、土崎湊城から久保田城に移り、久保田城下の安寧と発展を祈願して山王八幡社を八橋狐森に遷宮する。また佐竹義宣は久保田城内に大・小八幡を勧請するとともに、以前から秋田に存在していた神社12社の神々も祀るが、山王八幡社もそのひとつであった。
寛永19年(1642)
雄物川の氾濫により社殿が大破し、現在地を社地と定めて再建を始める。
寛文2年(1662)
現在地に遷宮。
明和7年(1770)
大火により類焼し拝殿・本殿を焼失。
安永7年(1778)
拝殿再建。
寛政9年(1797)
本殿再建。
日吉八幡神社は藩政期、「山王八幡社」「山王堂」「山王宮八幡宮」などと称され、佐竹氏に厚く祀られるとともに外町総鎮守として町人に「八橋の山王さん」として広く信仰を集めました。
明治30年(1897)
山王・八橋両社が合祀され、日吉八幡神社と改められる。
※明治時代に入り、政府の政策により神仏分離令が発令され、神道と仏教の区別の明確化が余儀なくされ、それまでの神仏習合という考えが一掃され「山王」という仏教に根ざす表現が神社では使えなくなり、また神社合祀の流れもあり、現在の日吉八幡神社と改称する。