生野城は播磨と但馬の国境を扼する城で、応永三十四年(1427)、ときの但馬守護山名時熈築いたことに 始まる。当時、将軍足利義持は播磨守護赤松満祐を討とうとし、将軍の命を受けた時熈は生野に出陣、 播磨をにらむ山上に生野城を構えたのである。
義持の満祐討伐は沙汰止みとなったが、嘉吉元年(1441)、満祐が将軍足利義教を謀殺した嘉吉の乱 が勃発、但馬守護山名持豊は生野を越えて播磨に進撃、乱の平定に活躍した。戦後、持豊は 赤松氏に代わって播磨守護職に任じられ、以後、山名氏と赤松氏の対立抗争は宿命となったのである。
赤松氏を再興した政則は、応仁の乱における活躍で播磨守護職に返り咲いた。これに対して山名氏は 播磨奪還を目指して赤松氏と抗争を繰り返した。そうして、文明十五年(1483)、赤松政則は 山名勢を迎撃するため真弓峠に出陣したがあえなく敗北、山名氏は播磨に侵攻した。 このとき、山名氏の重要拠点となったのは、生野城であったろうと考えられる。 敗れた政則は国人の支持を失って没落、播磨は「播磨錯乱」とよばれる乱世を迎えるのであった。