社伝によると寛治3年(1089)に長野長者の平忠平というものが宇佐八幡宮を勧請しこの地に社殿を建てたという。中世には大内氏の崇敬があつく、大内弘世は社殿を修理し境内を整備した。大内氏が亡んだ後兵乱により焼失したがこの地の人々は心をあわせて社殿を再建し旧観に復した。現在の社殿は江戸時代中期の造営にかかるものである。明治六年郷社に列せられた。
境内は広く林泉も清らかで、慶応2年(1866)の春、藩主毛利敬親公が、本社の藤をの花をめでられたこともある。
昔は本社の秋祭には「長野町」といってにぎやかな市がたった。この市で宮市の兄部の店があいもの(干魚)などを売っていたことが古い記録などで知れる。山口の町からも多くの参拝者があったといわれる。