今を遡ること約650年前、観応3年(正平7年、1352)に大内の家臣、小野和泉守平弘兼が宇佐より勧請といわれています。
観応3年(1352)の棟札、応永8年(1401)の棟札、天正10年(1582)の棟札、それぞれの写し残っており、これら創建時また建て替え、修理をした記録があります。
社殿には神社を庇護し問田を支配した益田家の○に久の家紋が残っています。
境内には亀趺に乗せた神社の由来を記した志多里八幡宮石碑があり、又明治維新頃国学者として石見、豊前まで講説して歩き活躍した神主佐伯八雲の碑が近藤清石の碑文で残っています。