鳥海山信仰の開祖・理源大師を学頭として開創され、矢島修験十八坊組織の支配者で、鳥海山の別当の役をなし、代々が領主生駒氏の祈願所となりました。もとは当山派の本寺、京都醍醐寺の末寺でありましたが、明治初期から京都智積院の末寺の智山派となりました。それまで本尊は山岳信仰に基づく薬師瑠璃光如来でありましたが、代わって現在の胎蔵界大日如来となりました。 開創年代が太安麻呂によって古事記が撰上され、出羽国がおかれた和銅5年(712)ともいわれ、今日まで八十七世、千数百年の長い歴史を持つ、県内有数の古寺であります。 鳥海山の山号を持つが、遊佐の龍頭寺の順峯修験と対比しているものの古代から近代にいたるまで、鳥海山修験の中心は矢島であり、十八坊を率いる福王寺も隆盛を極めたものでありました。 明治戊辰戦争の兵火で、堂塔伽藍とともに諸記録まで失いました。現在の本堂はその後の再建であります。かつては、六代目藩主生駒親賢(ちかたか)が、明和6年(1769)に寄進した梵鐘が時鐘としてうち鳴らしていたのに、太平洋戦争の犠牲となり失いました。 寺宝としては本尊のほかに、神変大菩薩(役小角・えんのおずね)聖宝理源大師の二師の古い仏像(市指定文化財)と、生駒氏祈願の宝篋印撘(市指定文化財)などがあり、この寺が鳥海修験の流れであることを立証する「逆峯修験鳥海山福王寺」の角型印章があります。明治2年(1869)の記録では、十四カ寺の修験寺院があったといわれますが、神仏分離令で復飾廃寺が多いとされております。