徳川期この地新川は、越前松平家の下屋敷が三方掘割に囲まれ、広大に構えていた(旧町名越前堀はこれに由来する)。その中に小さな稲荷が祀られていたと言う。御神体は徳川家の遊船の舳を切って彫られたものと伝えられる。
明暦三年、世に云う振袖家事はこの地にも及んだが御神体はあわや類焼の寸前難を逃れ、大正十一年に至るまで土地の恵比寿稲荷に安置された。関東大震災では再度救出され、昭和六年隅田川畔(現中央大橋北詰辺り)に社を復活し町の守護神として鎮座したが、戦災で全焼。昭和二十九年同処に再現のあと平成三年中央大橋架橋工事のため、ことに地遷座となる。
例祭は、十一月十五日である。