何時誰の勧請ということは明でない。明治42年11月村内9部落(上下田川、菜切、城生、羽場、上下狼塚、向子田、菜切谷新田)の三輪足、塩竈、八坂、鹿島、久須師、鹿島、羽場天神、田中、熊野、北辰の各神社を字上狼塚の熊野神社に合祀して人心の統一と維持法の確立を期したが、後大正5年4月菜切谷部落の寄附による同字山道囲に社殿を営み遷祀して廣原神社と称した。更に昭和4年10月伊勢神宮式年遷宮を記念し、廣原学校跡地に移し奉る。合祀社中上多田川の三輪足神社は後柏原天皇永正2年(3年とも)秋9月探題大崎義直の臣玉造郡一栗領主一栗左京二男多田川紀二郎の勧請するところと伝えられる。熊野神社は明治5年3月村社に列せられた。