がんくうじ
長崎県南島原市加津佐町乙432
巖吼寺は前名を円通寺と称し、正平8年(1353)、時の領主・有馬佐衛門佐澄世公が大智禅師の崇高なる徳に帰依し、肥後広福寺より禅師を招請して一宇を建立し、その開山となる。当時は禅師の教化篤く、常住の僧..
巖吼寺は前名を円通寺と称し、正平8年(1353)、時の領主・有馬佐衛門佐澄世公が大智禅師の崇高なる徳に帰依し、肥後広福寺より禅師を招請して一宇を建立し、その開山となる。当時は禅師の教化篤く、常住の僧300人におよび、七堂伽藍を備え、寺運は隆盛を極めていたが、天正7年(1579)、寛永14年(1637)、島原の乱の暴徒の兵に遭い、一時荒廃した。慶安5年(1652)雲山愚白和尚が加州より来て大智入定名蹟の廃頽を嘆き、智公の偉業を興さんとして円通寺再建を発願し、時の領主・高力高長の許を得て、寺号を普陀山巖吼庵と改称して復興し、今日に至っている。往古より観音霊場(郡内三十三観音霊場の第20番札所)にして、人々の信仰が跡を絶たない。
普陀山
曹洞宗
明峰派
1652年
釈迦牟尼仏
大智禅師
宗龍大禅定門
島原三十三観音霊場 第20番