ほうぜんじ
埼玉県川越市幸町2-14
一向宗、京東本願寺の末なり、自然山寳林院と號す、或は華界院とも云、縁起を閲るに當寺は昔真言宗にて丹州氷上にありて門徒十五ヶ所の本山なりしに、寛正元年時の住僧、法印良應ここに移住して當寺を起立し、良祐..
一向宗、京東本願寺の末なり、自然山寳林院と號す、或は華界院とも云、縁起を閲るに當寺は昔真言宗にて丹州氷上にありて門徒十五ヶ所の本山なりしに、寛正元年時の住僧、法印良應ここに移住して當寺を起立し、良祐・良全・祐智・祐惠・良海に至るまで、六代相續して古義の宗風を尊ぶ然るに良海は上州の人にて、先住祐惠京師にあそぶの日良海も随従す、時にたまたま蓮如上人城明山科郷野村の坊に於て親鸞相傳ふ宗義弘通の時なり、惠・海二僧共に山科へまふでて遥に教化をきき、歸依の志發りしかど、改宗せんもさすがにいかがなれば、文亀元年歸りて其後五年を経、永正三年に至り、祐惠歳六十三住職を良海に譲り、其身は京に赴きて釋實如に謁し、浄土新宗の流を酌み、専修専念の行者となる、同八年正月廿八日洛の寓宿にて往生を遂ぐ、ここに於て良海も又郡へ上り實如に謁す、師なりし祐惠が有縁の善知識なればとて、請て法名を書せしめ、遺骨と共に負て寺へ歸りて供養す、これより常に浄土の法門を兼學すといへども、舊宗の教と別なるにより、三密同體の床に坐して修學するに、若干の星霜を送る、ここに天文六年川越合戦の時、城下の寺院修羅の巷となれり、この間に當りて兼學の功ならざることをはかり、蓮如の所縁をたのみ、江戸麻布善福寺に入り、院主堯海に謁して縁をかたり、終に彼門に歸せり、然るに先師祐惠は退隠の後、浄教に歸し、良海は現住善福寺の弟子、源能と云僧を後住として寺務を譲れり、この源能俗姓は源氏甲斐國武田氏の一族、一條右衛門太夫信龍が叔父なり、此後しばらく善福寺の末寺となりしが、第四世の時本山の末に屬せりと云、本尊彌陀木の立像にて長二尺八寸、足の裏面に永承四年己丑と記す、定朝の作なりと云傳ふ、又堂の軒に鐘をかく、刻して云、爲武田家追福者也、武州河肥自然山法善寺、維時天文十九年庚戌初冬、釋源能等の數字あり。 寺寳。 親鸞像一軸。本願寺宣如が裏書あり。 顯如像一軸。本願寺教如の判あり。 後二條院宸筆一軸圓満院御門跡筆一軸。この餘、佛像名號のかけ物多し。 太子堂。太子十六歳にならせたまひし時、自ら彫刻したまひし木像を安ず、長さ四寸二分にて立像なり。(新編武蔵風土記稿より)
創建は不詳。真言宗寺院として丹波国氷上郡にあったとされ、1460年に法印良應が当地へ移したと言われています。
自然山
寳林院
真宗大谷派
不詳
阿弥陀如来像
真宗大谷派 自然山 寶林院 法善寺