平川郷の氏神で、鋤崎八幡宮と称した。第10代崇神天皇54年、豊鋤入姫命が詔を請けて天照大神が鎮まられる宮地を求めて、暫し当郷の名方浜宮に滞在された。この故を以て鋤崎八幡宮は、豊鋤入姫命の「鋤」の字をいただき、鋤の宮という名で崇め祀られた。
建武3年に平川高親が、近江の国野州郡平川郷から遷御の折り、氏神八幡宮を勧請し、鋤の宮に相殿として勧請した。即ち、御神体を近江の国から衛護し奉遷して鋤崎八幡神社と崇め奉った。
又、宮地の山は鋤の尖(さき)に似ており、陰陽の造化不測として黙して仰ぎ奉ることとなった。総て仏神の幽跡凡智に測り恠談(かいだん)となすものである。
諸悪莫作神変神通の道理詰者還愚也。宝基本記曰「神垂は祈祷を以て先とす、冥加は正直を以て本とす、人は天地の霊気を受けて生じながら霊気を貴はず、神明の光胤を種ながら神明の禁令を信じず、故に生死長夜の闇に沈みて根の国に吟う」
御供田は応永12年4月19日平川満経寄附書を以て(延宝5年の古記にも免除が有り)当社の規模となった。