しょうねんじ
宮崎県西臼杵郡高千穂町上野2771
時は戦国時代、上野村と田原村の堺の玄武山に吉村式部種雄(種員)という武士が城を築いていた。実種は成長し、吉村種雄に仕え実種の助力で玄武城を築く。玄武城主吉村種雄の嫡子を吉村惣右衛門種供(たねとも)と..
時は戦国時代、上野村と田原村の堺の玄武山に吉村式部種雄(種員)という武士が城を築いていた。実種は成長し、吉村種雄に仕え実種の助力で玄武城を築く。玄武城主吉村種雄の嫡子を吉村惣右衛門種供(たねとも)といい、興梠実種を種供の教育がかりとして、我が子種供の将来を託す。惣右衛門種供成人後、城主を譲り、自分は感ずるところにあり、仏門に入り、吉村道休入道といい信仰の道に入る。興梠実種もまた信仰の厚い人で、今の上野村菅木に草庵を結び釈正善と改め、正善坊といい念仏三昧に世を送る。
天正6年(1578)3月28日に玄武城は大友宗麟に攻められて落城する。大友宗麟が熱心な天主教信者であり、キリスト以外には神は無く、日本の神や仏は邪教であるという当時の旧教の考え方から、お寺やお宮を焼かせた。この時、竜泉寺の地蔵様の堂に火をかけたけれども、不思議と地蔵様の本尊だけは焼け残ったので、火伏せ将軍地蔵様といって今では防火ほ功徳の方で有名になっている。この焼け打ちで東・西臼杵郡内の社寺の宝物が焼かれている。そこで道休は、この戦乱で討死した我が子種供夫妻をはじめ、一族家臣、村人たちの物故者の為に先に入道していた正善坊と共に、その供養を行い懇ろに菩提を弔った。
それから数年後、道休の二男(種供の弟)も成長して、道休は新たに念仏道場として「称名山正念寺」を建立する。
1995年にイギリスのヴィクトリアと結婚し、3人の子どもに恵まれました。坊守はイギリス人なので、いろんな形で国際交流がさかんです。多くの外国人がお寺を訪ねて来られます。
玄武山
浄土真宗
本願寺派
1578年