歓応元年(1350年)冬、賢行によって可児郡牧野村兼行の地に創建された。賢行は京の公家・梅溪大納言兼房の子で、もともとは梅溪中将左衛門尉兼行と名乗っていた。歓応元年に縁あって加茂郡牧野へ来て天台宗・東光院で出家し、行基が描いたという阿弥陀如来画像を授かると、本願寺4世・善如に帰依した。
5世・賢善のときに兼山の浄音寺と専養寺の間へ小庵として移された。
7世・祐誓が森長可を開基とする妙願寺住職・随応の妹を妻に迎えたことから、森長可や蘭丸の母・妙向尼から多くの品が寺に寄せられた。また祐誓は天文21年(1552年)本願寺第10世證如上人の阿弥陀如来御絵像を下賜された。
慶長5年(1600年)、森忠政が信濃国川中島へ転封されたときに妙願寺も川中島(のち美作国津山)へ移転した。この跡地に妙願寺住職のいとこであった8世・浄祐によって移転された。
元和5年(1619年)、9世・誓祐によって西念寺と定められた。
慶安4年(1651年)、10世・誓玄のときに大火で堂宇が全焼した。文久3年(1863年)、にも大火に巻き込まれて本堂と庫裏を残して全焼した。現山門はこののち慶應4年(1868年)に再建されたもの。
現庫裏は大正6年(1917年)に建てられた。明治天皇の離宮も手掛けた名古屋の名工・宇野林平の作で、須磨離宮を模している。
昭和14年(1939年)、本堂・書院を火災で失った。