はちまんじんじゃ みなみちょうやまだ
岐阜県郡上市美並町山田1646番地の1
当社は平安時代中頃の書物「美濃国神明帳」に記されている郡上七座の内の一座・杭本明神である。髄本の地名は杭本明神の「くいもと」が転じたものであると考えられる。 治承2年(1178年)に戦乱下の出雲国..
当社は平安時代中頃の書物「美濃国神明帳」に記されている郡上七座の内の一座・杭本明神である。髄本の地名は杭本明神の「くいもと」が転じたものであると考えられる。 治承2年(1178年)に戦乱下の出雲国から相生村へきた福手兵部少輔は、村内に代々の氏神である八幡宮を奉祀し、郡内の相先村祖手村に城を築いて居住した。その後、養和元年に西乙原村の花庵に城を築いて転居した際、八幡宮を城下へ移した。さらに承元2年には当地の字中若山(杭本明神の社殿)へ遷座して八幡神社と称するようになった。こうして同地区の氏神となった。 由緒ある古社のため、維新前まで領主より高1斗1合を寄附されていた。また14枚の棟札が残っており、 最古のものは安永元年(1772年)である。八幡神社が杭本明神につながる古社のため、赤池の田中家に伝わる「美濃一鏡系図」には「門福手村、岩伊山蓮生寺、沙門妙道法師」とあり、系譜の記載から戦国時代には現在の門福手集会所付近に別当寺があったと考えられる。この場所には、鎌倉時代頃に建てられたと思われる宝篋印塔や五輪塔が祀られており、ここに寺があったという伝承もある。また鳥居は昭和50年頃まで長良川河原のすぐ脇にあったことから、当社は「川に後事する人々(筏流しや鉱道等川に関する業務に従事する人々)の安全祈願として祀られていたのではないだろうか」と言う説もある。
応神天皇(おうじんてんのう)
4月3日