興津城は別名奥津城ともいい、興津湊から北側の丘陵上に築かれました。標高120mを超え、湊から眺めるとかなり屹立した山城に見えますが、そのまま北側の平地に続く立地となっています。城山の南側には湊に続く道が通り、北側の尾根上には主要街道が通り、興津城はその抑えの役目を担っていたものと考えられます。鎌倉時代からこの地にゆかりのあった佐久間氏が城を築いたのが始まりとされ、詳細は不明ですが、その後、戦国期になると上総武田氏や正木氏が城として取り立てたとされます。現在は戦国時代の遺構が良好に残ります。
天正8年(1580年)に正木憲時が里見義頼に対して反乱を起こすと、興津城は里見軍に攻められました。このとき里見軍に攻められた興津城は周辺を攻撃され、わずか城郭部分のみがかろうじて落とされずに残る危機に追い込まれました。妙本寺に残る文書「里見義頼書状」によると、「興津巣城計(おきつすじろばかり)」と書かれていて、その緊迫した状況を生々しく伝えてくれます。その後の詳細は不明ですが小田喜正木氏が滅ぶと、勝浦正木氏の城として機能したと思われます。