おがわはちまんじんじゃ
和歌山県海草郡紀美野町福井1539番地
以下、和歌山県神社庁公式HPより引用
小川八幡神社所蔵文書によれば「欽明天皇の御子(540~570)宇津尊嶋より大和ノ国比木領に移り給い、それより紀伊の国名草郡辺に移り給う、其後紀伊の国生石山..
小川八幡神社所蔵文書によれば「欽明天皇の御子(540~570)宇津尊嶋より大和ノ国比木領に移り給い、それより紀伊の国名草郡辺に移り給う、其後紀伊の国生石山の麓下、小川に宮造する」とある。 「その後一条院の御宇(987~1010)石清水八幡宮の別宮となり、放生会その他の神事は石清水八の例祭に准ず」とある。 これとは別に、永祚元(989)年2月卯の日に、阿互川庄(有田川町楠本)に鎮座する生石神社〔天慶3(940)年創建〕を勧請して小川庄の氏神とした。 このことを「小川村是」に「有田郡阿互川庄楠本に御座給ふ生石神社を永祚元己丑年二月卯の日勧請し奉り、此宮地に陳座すと同時に八幡宮は石清水八幡宮別宮と勧請し奉りし事の由なり」として別宮として勧請と生石神社の勧請を同時にしたとしている。 以来700年余りの歴史は詳らかではないが中世のころ社運が衰微して神事や祭礼が中絶したという。 これは小川八幡宮のみならず、日本国中が戦乱に明け暮れた結果であろう。 しかし、前記本殿の棟礼によれば天正8(1580)年、文化10(1813)年、明治40(1507)年のものが現存しているところから、室町時代から社殿は焼失や損傷を受けることなく継承されていたことを示しているものの神事祭礼は廃していたものであろう。 ところが、享保19(1734)年に至って、高野山巴陵院代官、大聖院朝応は、代官になったことを機として、氏子衆の願いの関係もあって、朝応自ら願主となって、まず神輿、大獅子・小獅子・大小の鉾、その他多数の神宝が破壊されていたのを修復を加えこれらを寄進した。 それより神主・村の庄屋・年寄・惣代等の納得の上祭礼の儀式を定めた。 明治2(1869)年神仏分離令によって、境内から神宮寺は除去されることになった。