はくばんじんじゃ はやまじんじゃ
山形県寒河江市大字田代字葉山1192-2
当神社の創建時期は不明。「葉山」は本来「端山」で、「奥山」に対して里に近い山という意味なので、全国各地に同名の山があり、区別するために「村山葉山」とも通称する。地域や時期によっても違うが、「出羽三山..
当神社の創建時期は不明。「葉山」は本来「端山」で、「奥山」に対して里に近い山という意味なので、全国各地に同名の山があり、区別するために「村山葉山」とも通称する。地域や時期によっても違うが、「出羽三山」は江戸時代初期まで「羽黒山」・「月山」・「葉山」を指し、「湯殿山」は「総奥之院」の扱いだったともいう。そういう事情で、古くから「葉山修験」という一派が活動しており、その中心を成していたのが「医王山 金剛日寺 大円院(葉山大円院)」だったという。その神仏混淆の縁起によれば、天地開闢の折、国常立尊が「葉山」山頂に五色の華、即ち妙法蓮華経の5文字が開くのを見て、天下って「葉山地主神」となった。その本地は薬師如来である。大宝2年(702年)、役小角(役行者)の命により、弟子の行玄が開山したとされる。そして、「日本三代実録」貞観12年(870年)の記事に、出羽国の「白磐神」と「須波神」に従五位下の神階を授与したとあり、そのうちの「白磐神」が当神社のこととされている(国史現在社)。その確実な証拠はないが、現在も「葉山」の南側に広く「白岩」という地名が残っており、通説といってよい。中世以降も、当地の領主に篤く庇護されたが、16世紀中頃、ともに「葉山」を「奥之院」としていた大寺「瑞宝山 慈恩寺」が離反したため「葉山修験」は次第に衰退した。それでも「大円院」は新庄藩の祈祷所などとして重用され、最盛期には宿坊19坊、末寺51ヵ寺があったが、江戸時代中期には宿坊が6坊まで減少、明治時代に入ると修験道が禁止されたこともあって、ますます衰退した。更に、第二次大戦後、寒河江市白岩字畑にあった本堂付近がGHQアメリカ陸軍の演習場の着弾地とされたため、昭和30年に本堂を解体・縮小し現在地(村山市岩野)に移転したという。この間、「白磐神社」の変遷はよくわからないが、「葉山薬師権現」などと呼ばれ、「千座川」の水源の神として、主に「作神」(農業神)として信仰されていたようであり、新庄藩主・戸沢氏により何回か「奥之院」(社殿)建替えがなされた記録がある(文久元年:1861年など)、現在では「葉山」山頂付近に社殿があって、「葉山神社」とも通称されている。
大宝二年役の行者と徒弟行玄入峯。三代実録に貞観十二年「授出羽白磐神社従五位下」とある。葉山は山岳信仰の霊場であり、近世寒河江城主大江氏代々が崇敬し、神領地を寄進、天正 十三年最上義光が墨印で、慶安二年には朱印で社領を寄進。また新庄戸沢...
大己貴命 国常立命
十五級社 旧無社格
702年
七月十五日(七月第三日曜日)