ふじなわのもりみしまじんじゃ
愛媛県伊予市中山町中山午170-1
当三島神社本殿の棟札によると 「天平勝宝6甲午年(754)秋八月社僧慧海記 」によると、奈良朝孝謙女帝の代、伊予の国大三島大山積神社より勧請しこの地に奉斎した。 降って鎌倉時代に到り伊予の国主河..
当三島神社本殿の棟札によると 「天平勝宝6甲午年(754)秋八月社僧慧海記 」によると、奈良朝孝謙女帝の代、伊予の国大三島大山積神社より勧請しこの地に奉斎した。 降って鎌倉時代に到り伊予の国主河野通有、その子通吉、通朝、通貞の三子を伴い喜多郡中山の郷梅原の里に入り三子をこの地に止め、祖先の因縁により城戸 越智 合田の姓を名乗らせ共同領有の地と定めたが、その後合田家が隆盛を極め通基の代に到り一族を引き連れ高之森(合之森)に居城を構え、5382石を領有し23ヶ村を支配するに到る。 家運の隆盛を極めた通基は当神社を武運長久の守護神として奉祭し、厚く崇敬し応永9年(1402)自ら願主となり鳥居を建立し、神域の面目を一新、御神徳の発揚を図るべく計画致したが、何かの事情で完成に到らなかった。 この鳥居が一本鳥居と称せられ楼門前に現存しているもので 「鳥居遺構」として県の有形文化財として指定されている。また、この鳥居は古代型の鳥居で現存するものが数少なく、更に金石文研究の上からも大変貴重な文化財とされてる。 その後合田家に代わり城戸家の勢力が高まり、天正文禄のころ高森城より天山城に転じ城戸右京守亮(たけし)が祖先の意志をつぎ社殿の造営境内地の整備拡張に意を注ぎ現在の神域を形成したと伝えられている。 慶長5年(1600)、城戸右京守は朝鮮征伐の戦功により九州杵築城に転封され稲葉の姓を名のり五万石を領する大名となり、この地を離れるにあたり一子を残し、当神社の神官として長く祭祀に奉仕したと伝えられている。 更に江戸時代には大洲五万石加藤家の領域に属し、代代の領主崇敬の念厚く年毎の例祭には「御召仕」と称する代官を差廻し、永木城戸家に館を構え城主の代参祭儀の指図を勤めていたと伝えられている。 このように当社は古き昔より地頭及び城主の崇敬特に厚く近郷住民の信仰と相俟って参詣者も多く隆盛を極めた古社であり、46町の地所持ちの大社であった。 現在の本殿は、神明造りの石の口引き土台で江戸時代初期の建立であるといわれ古くは萱葺であったが昭和30年銅瓦葺きに改め内宮式棟造りを配し、豊かな社叢と相俟って静謐な神域を形成し大字中山の氏神として住民の信仰の的としてあがめられている。
大山積神(おおやまつみのかみ) 雷神(いかづちのかみ) 高龗神(たかおかみのかみ)
1月 1日 歳旦祭 2月上旬 祈年祭 2月23日 神楽奉納 4月23日 神社講 7月23日 夏越祭 10月17日 秋祭り 11月 3日 神社講 11月23日 新嘗祭
有り。
境内の北にある建物裏手のトイレ使用可。