えんじょうじ
島根県松江市栄町792
当寺は、もと龍翔山瑞応寺と号し、慶長16年(1611)堀尾吉晴公が松江移城の際、歴代月山富田城主の菩提寺であった城安寺を富田城下より当松江城下に移し、浜松、天徳寺より春龍和尚を開山に迎え新たに松江城..
当寺は、もと龍翔山瑞応寺と号し、慶長16年(1611)堀尾吉晴公が松江移城の際、歴代月山富田城主の菩提寺であった城安寺を富田城下より当松江城下に移し、浜松、天徳寺より春龍和尚を開山に迎え新たに松江城主の菩提寺として建立された寺院です。春龍和尚は、仁孝天皇より大光円照禅師の称号を賜り、紫衣を許された当代きっての高僧でした。また、第二世の瑞巌和尚も後陽成天皇より紫衣を許される高僧でした。吉晴公は、松江城中で忠氏公はそれ以前に富田城中で没し、時に忠晴公十三歳にして初代松江城主となり、長じて松江都市形成の基盤をなす町づくりの偉業を残し寛永10年(1633)三十五歳で江戸詰中に没しました。忠晴公に嗣子なく堀尾家はこれを最後の断絶となりました。その後、若狭より京極忠高が入府し寛永12年(1635)瑞応寺を意宇郡乃木村に移し、堀尾家追善のため寺領五十石ついで米千五百俵を付して「鏡湖山圓成寺」と改称しました。大正4年、旧家臣、市長、助役、議長、総代方により堀尾会が結成され松江開府の恩を永く追念して其の祭祀を継続したいとする宿願が容れられ、忠晴公夫妻の位牌と木像を京都妙心寺、春光院(吉晴公の長子、金助の菩提寺)より当山へ迎え入れる事ができました。また、昭和7年より松江祭の行事の一つとして毎年十一月六日に堀尾公の法要を厳修し、その後、広瀬町富田に参じ吉晴公の墓所にて香華を捧げることが習わしとなっております。書院庭園には来待石製、六地蔵灯篭があり慶長9年(1604)と山陰最古の記年銘が刻まれており、本堂裏の忠晴公墓所と共に市文化財に指定されています。
鏡湖山
臨済宗
妙心寺派
釈迦牟尼仏
春龍和尚
書院庭園 松江市文化財指定 忠晴公墓所 松江市文化財指定
無し
30分
有り