つるえしんめいぐう
山口県萩市大字椿東4011番地
釣井壇、釣井、菊江(今の鶴江)恵美須の森に大同元年(806)、一説には延長年中(923~31)或は寛元年中(1243~46)。第五十一代平城天皇の御代椿郷の長者椿氏常行の奏聞により荒人と伝人、内外宮..
釣井壇、釣井、菊江(今の鶴江)恵美須の森に大同元年(806)、一説には延長年中(923~31)或は寛元年中(1243~46)。第五十一代平城天皇の御代椿郷の長者椿氏常行の奏聞により荒人と伝人、内外宮(二宮)を勧請と伝え、享保2年(1717)五代藩主毛利吉元は、社地を改めて山上の今の地に奉遷された。神明宮産土神によりて、当社をもって御遥拝所となさしめたまう。(八江萩名所図画)享保6年神祗管領卜部兼敬に神威の増加を乞願って宗源の宣命を賜う。毛利家書には「往古よりの社にて、萩にては余類も無之御崇敬を遊ばされ候」と代々の藩主に崇敬されてきた神社であり、特に三代藩主吉就、4代吉広、9代斉房の氏神としても尊崇された。(三公共に江戸麻布邸に生まれ御氏神江戸麻布神明社)天明8年(1788)から8代藩主治親、文政4年(1821)から10代斉煕とつづいて崇敬が篤く、其の後、追々お子様方も産土神として尊敬した。嘉永3年(1850)13代藩主敬親は本殿の錦帳に「抑当社神明宮は公之産土神也。云々」と当役、浦靱屓ほか47名の連署がしてある。(敬親は江戸麻布邸に生れ、御氏神江戸麻布神明社)防長寺社由来には、長門国一社の太神宮とあり、萩三社中の名社にして萩五社詣りの一なり。もと太神宮又は神明社とも称した。
天照皇大神、豊受皇大神
神明さま