くぼじょう
千葉県香取郡多古町北中3153
久保城は、千葉氏宗家当主千葉胤貞(1288年~1336年)が居館として築いたものと伝わります。多古の中心ともいえる中村に創建された古刹日本寺の古文書にも、胤貞の居館は「久保(窪)」にあったと記されて..
久保城は、千葉氏宗家当主千葉胤貞(1288年~1336年)が居館として築いたものと伝わります。多古の中心ともいえる中村に創建された古刹日本寺の古文書にも、胤貞の居館は「久保(窪)」にあったと記されています。久保城は土地の伝承と古文書からも、千田殿」と呼ばれていた胤貞の存在を裏付ける重要な城といえます。同じく中村の分城や中城は、久保城を守る防衛拠点として胤貞が築いたとされています。平安末期から、多古は「千田荘」という荘園の中心地で千葉氏の領地でした。千葉氏は源頼朝に助力し、鎌倉幕府の成立に大きく貢献、そして勢力を拡大していきました。しかし、鎌倉幕府が滅亡すると、千葉一族も足利尊氏派と後醍醐天皇派に別れて戦いました。胤貞は尊氏派につき、後醍醐天皇派についた従弟の貞胤と争いました。そのような中で多古も戦の舞台となり、多くの城が築かれました。戦国期に入り、また戦乱の舞台となった多古の城は整備拡張されて使われていたと思われます。久保城周辺には土塁や空堀などの遺構が残っています。