しろやまじんじゃ
和歌山県伊都郡かつらぎ町中飯降461番地
以下、和歌山県神社庁HPより引用
城山神社のあるかつらぎ町中飯降の地は、古く縄文時代・弥生時代から人々が居住していたことが出土した石鏃などの遺物によつて知られている。 平成20年7月、京奈和..
城山神社のあるかつらぎ町中飯降の地は、古く縄文時代・弥生時代から人々が居住していたことが出土した石鏃などの遺物によつて知られている。 平成20年7月、京奈和道路建設に伴う中飯降地区の発掘調査により、西日本最大の縄文時代の縦穴建物郡が発見され、出土した土器から、縄文時代後期前半(約4千年前)の縦穴住居跡であることが判明した。 このような遺跡は中飯降の近辺に複数あり、この地に多くの古代人が暮らしていたことが実証された。 古代この地に生活していた人々は、太陽など自然を神とする素朴な信仰生活をしていたことが想像される。 城山神社の歴史が文字で書かれたものに、文化4(1807)年の紀州伊都郡灌頂府庄中飯降村伽藍鎮守勧請事と言う文書を包んでいた紙がある。 それには「中飯降村奥之宮鎮守勧請之御書附也薬師講中」と書かれ、入っていた文書には「延喜(えんぎ)四(904)年甲子暦正月十六日丑尅(真夜中)」の日付が書かれていた。 今から1,105年も前のことで、その文書には、城山神社を奥之宮と称し、天照皇大神を主神として祀ると書かれていた。 また、天照皇大神を祀っていたことから太神社とも呼ばれていたようだ。 明治40年頃には、中飯降地区には太神社の外に、天満神社、弁財天神社、荒神社、八幡神社、祇園神社、八王子神社、牛神社、弁天神社、大将軍神社の9神社もあった。 だが明治39年「一村一社」の政府の方針に従い1社に統合することとなり、合祀の許可を得て、奥之宮と喚ばれていた太神社に合祀することにした。 その時、神社の名称をどうするかが課題となり、種々、検討の結果、奥之宮のある宇名の城山は、弘法大師母公の血を引く田所氏の城跡に由来する地名であることから「城山神社」と改称することにし今日に至っている。 昭和2年には、第1回正遷宮を実施し、その際、新しく神殿を建立した。 第2回正遷宮は、昭和23年で、昭和20年の敗戦、それに加えてインフレのため21年目の正遷宮となった。 第3回は、昭和43年、第4回は、昭和63年、さらに平成20年、第5回目の正遷宮には、氏子一同から寄せられた浄財により、神殿、拝殿を修復し境内を整備した。 これにより神慮を安んじ奉るとともに神域に、一層の荘厳さを加えることとなった。 毎年の例祭には、近郷よりの子供みこしが、中飯降街道を練り周り、広い境内では参拝者や氏子等が集い、夕刻に行われる大餅投げの儀を待つ。 大餅投げの儀には、氏子と神社の絆を強める勇壮な光景を展開し神前はなごやかな雰囲気に包まれる。 城山神社は1,100余年もの長き間、この中飯降の地に鎮まり、多くの人に親しまれ、数え切れない程の老若男女が神殿の前で敬虔な祈りを捧げてきたし今後も絶えることなく続けられていくに違いない。