淡河城の創築は承久四年淡河に在る地頭職に補任された北条右近将監成正が築き後、淡河氏と称し土地の豪族として連綿と続いた。弘安の比叡尊上人に帰依し右の再興を成し庄内の山林を殺生禁断の地と定めた。亦た正応二年一遍上人寂後、時宗の再興に尽力し創宗の基を築いた。南北朝の頃淡河氏は南朝に加担し為に再三北朝軍が来襲し城を囲んだ。其の後は赤松氏の旗下となり摂播国境守備の任を帯ぶ。
嘉吉の乱に来政せる山名軍に降り事無きを得た。応任以降は赤松再興にその築源となり後、三木城主別所氏の旗下に属す。天文二十三年三好氏三木城を攻む時、当城へも来攻、落城したが永禄元年旧に復した。天正六年二月別所長治、織田信長に叛き為に羽柴秀吉三木城に迫る。
同七年四月織田軍淡河城の四方に付城を築き対陣す。城主淡河弾正忠定範同六月二十七日敵陣に牝馬を放ち羽柴秀長を敗走せしめ大勝を得る後、三木城に入る。以降当城は有馬刑部郷法印則頼の居城となり三千二百石を領す。後山崎合戦、長久手合戦の功により一万五千石を増封せらる、然るに慶長五年九月関ヶ原合戦が起こるや有馬氏東軍に加担し同十月戦功に依り有馬郡三田城に二万石を賜ひ移封するに及び、同六年正月以降廃城となる元和元年濠及び土塁を壊す。
淡河の里を眼下(比高差約20m)に一望できる河岸段丘上端に築かれたこの城は、淡河氏代々の居城でしたが、天正6~8年(1578~1580)羽柴秀吉による三木城(別所氏)攻めの後は、有馬氏一万五千石の居城として慶長六年(1601)まで、淡河と共に栄えてきました。
城の遺構は現在、本丸と天守台、堀を残すだけとなっています。幅15m、深さ3~5mの堀に囲まれ、本丸の南辺に東西50m、南北8~16mの天守台を配する構えは、当時の面影を残しています。また、本丸の南東には竹慶寺跡があり、境内には城主淡河氏代々の墓碑があります。