当地は武蔵野台地の東北端にある。地名は地内の中央に竹林があり清水が湧き出して沢となっているところから名付けられたという。
当社の創建は、社記に「創立年紀詳ナラス旧来三十番神ト称セシガ御一新ニ至リ取調候処右ノ神(八意思兼命)ナルヲ以テ当今ノ社号ニ改正ス」とあり、口碑に「幕末まで名主を勤めた池上家の祖、喜平が元禄二年に草分けとして入植した際、鎮守を祀るために池上本門寺日照を招いて、三十番神を勧請した」という。これを「元禄七年戌の年」とも伝えている。また、明治の神仏分離の際は「世話人池上弥平次と池上弥次右衛門が山伏東乗院鈴木文昌と計って神名は八意思兼命がよかろうと考え出し、社名も地名に因んで役人に提出して許可された」という。
『風土記稿』に「三十番神社 村内の鎮守とす」とある。明治五年に村社となり、同四二年には藤久保の稲荷神社へ合祀の話があったが、重立ちの池上仁三郎が手腕家で、当社の方に合祀すべきだとし、藤久保も譲らなかったので合祀は中止になったという。
本殿は、明治五年より三年を費やして再建される。これは彫刻にも念を入れ、秩父のマサという名人を呼んだといい、明治七年の棟札を残していた。しかし、残念な事に昭和五二年原因不明の出火によりこの本殿は全焼してしまい、現在の本殿は昭和五五年の再建である。 「埼玉の神社」より