以下、和歌山県神社庁該当HPから引用
当宮は、八幡三座を主祭神とし、古の貴志の荘一帯の産土の総社である。
康平6(1063)年に創建された、海波の峯、今の鳩羽山頂に、巨巖5.5mの、原始信仰の形態あり(奥の宮)と言う。
25年経て(中の宮)にて祭祀の後、750年を経て現在地に遷し、850年を経て明治39(1906)年社殿造営、現在の八幡宮である。
古記によれば、上古神功皇后筑紫より御凱旋の御時皇子と共に、御船にて、名草郡柏原の郷に着かせ給ひ、(柏原の郷は今の安原村に在り)夫より御上陸ありて小竹の郷に遷らせ給う時(小竹の郷は今の長田の荘志野村に在り)、御駐蹕なされし旧跡なり。
康平6(1063)年、大和国、宇智郡坂合荘に阪上法兼という者があり常に八幡宮を尊信して、老年に及んで神託をうけ、中秋の頃ある夜一道の光明閃閃として、南の方より輝き、法国・法實の2人の男子に命じて、光について其の基を探らすに、此の地の山中に光が消える。
法兼是れ則ち八幡宮の影向なりと速に里人を誘って、社殿を創設し遂にこの地に留って社司となる。
この時国司五条大納言より種々の珍宝を寄進せられ、四方50町に及ぶ神領を定められた。
其の四至は北は海波の峯、東は守山を限り(今の北山)塞ノ神地区、西は宇志谷(長山)大池あたり、南は財河を限り(貴志川)貴志川一帯の古代文化の中心となる。
天正(1590)の頃兵燹に罹り社殿・古文書悉く灰燼に帰し神領も没収せられ古の姿を失う。
慶長6(1601)年山名師氏再び社殿を建立す。
舊く傅わりし御湯釜の陽字の銘に、「蓮華八幡宮、大畠村孫六大夫、大永六(1526)年十二月十三日」とあり、往事より湯立神事があった。
『紀伊国名所図会』に「紀伊の国貴志の荘八幡宮領 蓮華宮村別當職井油田の事 相傅に任せ、神貴次郎法傅領掌 相違有る可ら不るの状件の如し」明徳三(1392)年十一月二十日 右は年中に大祭四度。
(大祭4度)
例祭10月17日、春祭(祈年祭)4月3日、夏祭8月15日、冬祭(新嘗祭)12月13日
其の他、年中恒例祭11回。
8月13日~15日の夏祭の神事の時は、7月晦日の夜、忌串標挿あり、これより祭日まで四至の内殺生を禁じ荘中にて死するものあれば、他荘へ移し葬るを例とす、神主1人 社人5人 巫女2人 下司1人 公文1人 番頭12人と記されている。
(祭礼)
誠に優美盛大で 神事(馬かけ・流鏑馬・能楽・御輿渡御・若衆大幟上げ等)の神賑行事があった。