戸坂東山(舟ヶ谷山)のふもとの滝にあるので、「瀧の宮」ともいわれており、滝口の磐境(いわさか)、すなわち巨岩の屏風岩と釣鐘岩の間を御神霊と斎き奉る。
創立の年代はつまびらかでないが、万延年中(1860年代)に著述した『瀧の金比羅宮社記』によると往古の勧請で、建武年中(1334-5年)に足利尊氏が社頭に額面を寄進したと記され、また「安芸国戸坂村の内、瀧の金比羅宮の儀は往古の御勧請にて御祭神は大汝神、少彦名之神にましまして禁厭(きんえん)之道医薬の術を伝へ世人の病患を救療擁護し給ひ、またこの瀧の水を御神水と称え、この神水にて湯浴(ゆあみ)すれば“宿病平癒”の神徳頗る顕著で御恩頼(みたまのふゆ)を蒙る者多し」とある。
昔は滝の近くに温泉が湧き出していたといわれ、湯壷(ゆつぼ)、竈石(かまいし)という古名が今も伝承されている。世人、この滝の浸水で湯浴みをすると病がよく治ると、御恩頼をいただくものが多かった。滝の右上の釣鐘岩(岩上に三百歳の老松がある)の下に榊の連理木(二本の木の枝が連なっている)があったが、昭和四十年ごろ枯れた。この木の生ずる所は自然に富み、大いに繁盛する瑞祥のしるしといわれた。
医薬の術を世に伝え世人の病患を救療擁護される御神徳があり、宿病が平癒する霊験があらたかなので、広く信仰されていた。
旧藩浅野時代、上田家老、(この地一帯は上田家の封土であった)は正護稲荷神社(上田氏の守護神で、惣田原の上、正護岩の所に鎮座、昭和十五年に豊穂稲荷神社に合祀した)と滝の宮を崇敬し、毎年、神供料を献上していた。また戸坂村も滝の宮を崇敬し、神供料を献上していた。
この境内地一帯は昔から金比羅山と呼称し、神社有であったが、明治八年上地されるので早速、村方に移管した。但し移管は名義上だけで村用に伐採することは許さなかった。大正四年芸備鉄道がこの地を金比羅遊園地に開発し、昭和三年には神殿、拝殿の奉納もあり、滝の西側に社務所(連理案(れんりあん)と呼ぶ)を建てて、宮司木村八千穂が日夜奉仕していたが、昭和十二年(日支事変)に社務所を閉じて下山した。その後昭和三十五年に風水害で社殿が流出、社務所も破損して、戦後の経営はすこぶる困難になっている。
この山一帯は古くから一大霊域を形成し、近在の厚い信仰を受けて隆昌を極めていた。古文書によると、元禄十四年(1701年)この地の領主であった上田主水(家老)のとき松笠山は戸坂村領有とあり、また宝暦午年(1762年)には戸坂村庄屋万平などが連署して松笠観音の修理方を時の代官に願い出ている。しかし明治に入って松笠山境界論争事件が起こり、明治九年に和解、松笠山と松笠観音(上観音)は小田村(高陽町小田)となり、松笠山の南の山地にある琴比羅神社と竜泉寺観音(下観音)は戸坂村(町)になった。