なかやまじょうあと
群馬県吾妻郡高山村大字中山230
建保2年(1214年)に武蔵児玉党の阿左美氏によって築かれたのが始まりとされています。この頃は現在の位置よりも東の山の上にあり、現在の「中山古城」と呼ばれています。阿左美氏はやがて中山氏を名乗り、武..
建保2年(1214年)に武蔵児玉党の阿左美氏によって築かれたのが始まりとされています。この頃は現在の位置よりも東の山の上にあり、現在の「中山古城」と呼ばれています。阿左美氏はやがて中山氏を名乗り、武田氏が吾妻へ侵攻してくると、徐々に武田氏配下の真田氏に従うようになります。 天正10年(1582年)武田氏が滅亡し、織田信長も本能寺の変で横死すると、上野一国を与えられた織田家家臣滝川一益が上野を引き上げると北条氏直、徳川家康らが旧武田領に侵攻した。真田昌幸は始め北条氏に帰属したが、その後徳川方に転じた。 北条氏直は真田の拠点である岩櫃城と沼田城の中間にある中山の地を押さえる為北条氏邦を向かわせた。北条方の白井長尾氏の攻撃を受け中山古城は落城。北条氏は現在の位置に城を築き、真田攻めの拠点となった。